気づきの瞑想

瞑想も色々だが、最近注目(?)されているのがウィパッサナー瞑想の一つ「手動瞑想」である。1980年代にタイで生まれた比較的新しい瞑想法である。
以下の映像はプラユキ・ナラテボー師。上智大学哲学科を卒業、タイの大学院で学んだ後、タイ仏教で出家したれっきとした日本人である。
 この瞑想「目を開けたまま行い、今ここにある手の場所に気付く」(この気付くというのがウィパッサナー瞑想の特徴で、別名「気づきの瞑想」とも言われている。)あぐらをかいてもいいし、椅子に座ってやってもいい、とにかくリラックスして「雑念」は「雑念」として受け入れればいいのである。 このプラユキ・ナラテボー師の瞑想講座では、この瞑想がなぜ効果があるか。それを仏教だけでなく、哲学、心理学、脳科学などを交え論理的に説明をした後、「手動瞑想」の実践に入るのである。すばらしい。
一方、この日本の瞑想と言えば「座禅」である。実は座禅は以外と難しい。なぜならば集中する対象が曖昧なので、瞑想中よけいなことを考えてしまうのだ。しかも説明もない。安倍さんをはじめ歴代の日本の首相は「座禅派」である。年配者は圧倒的に「座禅派」であるが、若者は「ウィパッサナー瞑想」の方に魅力を感じるだろう。
なぜなら世襲ばかりの日本の僧侶には、このプラユキ・ナラテボー師のような論理的かつ実践的な僧侶はすくないからである。


西洋哲学、仏教など、、、。

 

心の断捨離

 

現在は「異常気象の時代である」と言う。では、逆に「安定気象」や「普通気象」という状態があ

るのだろうか?実は、気象はいつも異常なのである。

リーマンショック以後、「社会は不安定になった」という。では逆に「安定した社会」とはどのような社会なのか?実は社会など、一度も安定したことなどないのである。

もし、不安や不満がなくなり今の状況に満足してしまったら、われわれは行きてゆけないだろう。不安だからこそ、不満だからこそ生きていく活力が生まれるのである。

 自己も社会も、毎日が転換期、過度期なのである。わたしたちは常に生成変化・消滅という無常を生きているのである。

 日本人の好きな話に「アリとキリギリス」というのがある。アリは働きもの、キリギリスは怠けもの、日本人はアリを自分たちと重ね合わせているのである。しかしそのアリも7 割は休んでいて、1割は一生働かないという。(『働かないアリに意義がある』長谷川英祐著)

 そもそもすべての人間が、健康で100歳までバリバリ働いたら、地球はとっくに資源がなくなり崩壊していることだろう。

 もう一つ「ウサギとかめ」の話がある。カメ=努力家=日本人。しかしこの話には続編がある。も

う一度、競争しようと言うことになった。ウサギは昼寝をして十分休息を取ったので、今度はカメよ

り早く、ゴールにたどり着いた。一方、カメは休息を取らなかったのでゴールまでたどり着けなかっ

たのである。

怠けている人がいるおかげで頑張る人もいる。負ける人がいるおかげで、勝つ人がいる。

私たちは「働かない」働き方、「役に立たない」役立ち方も考えていかなければならないのである。

 


 

 西洋哲学の本は以前結構読んだ。

デカルト、ライプニッツ、ショーペンハウワー、ニーチェ、ハイデッガー フッサール、メルロ=ポンティ、フーコー、ドゥルーズ、デリタなど、、、。

もっとも、仏教に興味を持ってから以前ほどは読まなくなったが。

仏教と言えば、前から禅には興味があって鈴木大拙の本(ジョンケージも影響をうけたことでもあるし)などは読んでいた。

 固定観念や先入観を取り除くには、老荘思想と禅は恰好の材料である。 

しかし、ここに来て、唯識、華厳、中論、初期仏教、アビダルマ、浄土三部経など色々と 興味が出て来たのである。

 ショーペンハウワーは「私の哲学において、真理を基準にして哲学の優劣をつけるなら、仏教を最高の地位に置かざるを得ない」、またニーチェも「キリスト教より仏教の方が100倍実践的である」などと言っている。

彼らは、おそらく仏教の経典を読んで、かなり影響を受けたに違いない。

 他にもホワイトヘッドとか、ポスト構造主義と言われる人達の思想も、かなり仏教に似ている。 逆に仏教を知ることで、こういう人達の哲学や思想が理解しやすくなるという効果もある。  

 ただ、なにごとも几帳面で、暗記をするのが好きなまじめな人が仏教を理解しょうとすると カウンターパンチを食らうかもしれない。 釈徹宗も言っている通り「仏教はそうかわかった。と思ったら、別の所から違いますよ。」というメカニズムになっている 永遠に未完成で脱構築の思想なのである。

 従って仏教を理解するには「常に頭をやわらかく、思考を宙吊り」にしておかなかればならない。 一休さんの「このはしわたるべからず(この橋を渡るな)」と書いてあるのを、橋の真ん中を堂々と渡ったり また後日、真ん中も歩いては駄目と言われて「橋に乗らねばよいのだろうと敷物を敷いてその上を歩いて渡った」と言う有名な説話は仏教の 特徴をよく表している。

従って「即興の好きな人」「いいかげんな人」「世の中なるようになるさ」と言った楽天的な人にはお薦めの思想なのである。 そうでない人は、仏教に接すればそのような性格に変わるかもしれない。

 また「宗教なんか大嫌い、仏教なんか大嫌い」と言う人には特におすすめである。 ななしろブッタは「信仰を捨てろ」と、また臨済宗では「仏に会ったら仏を殺せ」とまで言っているのである。 仏教は仏教自体にも執着してはいけないのである。 天才バカボンのパパが言う「賛成の反対、反対の賛成」と言う言葉はまさに仏教的。これでいいのだ。


 

原始仏教と大乗仏教

 

日本人にとって最大の心の支えはなんだろうか?

そう、会社なのである(もっとも最近は少しずつ変わりつつありますが)

その会社を定年退職になると、とたんに仏教に興味を持ちだすのである。

いままで、心の支えが会社だったのが、会社に変わって仏教が心の支えになるのである。ようするに、定年退職後は趣味でもしながら悠々自適に暮らしたいと言う願望と仏教とがマッチするのである。

 そして、仏教講座にかよったり、仏教の入門書を読んだりし始めるのである。

ところが仏教の思想は実に多様なのである。期待したものがすぐ得られるとは限らない。 

講師の話を丹念にノートに書留て、仏教がわかったようなつもりになっても、また別の仏教があって、「今、あなたが覚えた仏教は違いますよ」とやって来るのである。(とは言っても、無常、無我、縁起と言った基本概念はどの仏教でも同じだが、それとて様々な解釈がある。)

 原始仏教では、「人生は苦であり無常である、一難去ったらまた一難、その状況が最後まで続く(ニーチェも「力の意志は上下する」と言ってるが)サイの角のようにただ独り歩め」と厳しく突き放すところがある。しかし一方、大乗仏教の特徴は慈悲の心(とりわけ浄土宗は仏の慈悲によって生かされていると考える)である。金子みすゞの詩のように「ゴメンネ」と言えば相手も「ゴメンネ」、「優しくすれば相手も優しくなる」と。

 結局、原始仏教と大乗仏教を結びつけるとすれば、一旦無常を受け入れた上で、慈悲と利他の心に結びつけるということだろう。