My opinion



 「弦楽四重奏のためのプロジェクション」1970) の河合孝治による解説 

 

この作品は誕生してすでに40年上が経過しているにもかかわらず、いささかも色あせることなく現在でも弦楽四重奏曲の中で最も重要かつ優れた作品と言ってよいだろう。湯浅譲二には「プロジェクション」と名の付いた作品が多く存在するが、この作品もその中の一つである。湯浅はサルトルの影響を強く受けているが、プロジェクション(投企)とは、ハイデッガーやサルトルが示した本質的な人間の在り方、それは自らが決意し、世界へ投げかけること(世界内存在)によって到達する実存である。実存は「永遠の時間」を喚起するが、それは時間の長さではない。この作品では「音程、音量、音色、そして音のゼスチャーによる音響エネルギーが時間軸で推移する」のが特徴のように実存は「力の意志」のように上下する深く浸透する「時熟」である。それは固定した実在を自己が意識するのではなく、自己が生成変化する世界へ投企するのである。また、弦を弓で縦に擦りながらのグリッサンド 微分音程で動く雑音的なペダル音、音程の幅を変化させながらのトレモログリッサンドなど、それまでの弦楽四重奏では見られなかった技法が随所に使われている。

この方法は湯浅が「内触覚的宇宙」やホワイトノイズを使用した何曲かの電子音楽作品の思想を受けついでいるように思える。それは無意識の深層世界が非同一のままに世界を喚起した心的世界。言い換えれば、思考のイメージを脱根拠化し、原初的なものを現素材として現動化させるのである。

湯浅はこの作品の思想や技法をさらに「クロノプラスティク」「オーケストラの時のとき」へと発展させ、壮大なコスモロジーの世界を喚起するが、この作品が意味するポジションとは何か?それは「広大な外的世界と閉ざされた内的な無意識の世界との間を媒介する」ターニングポイント(換言すれば自己から外界への遠心力とコスモロジーによる求心力)との間に位置する。その意味で湯浅譲二の作品群の中でとりわけこの作品は重要ではないだろうか。またそのターニングポイントとは、今回のコンサートのテーマである「自在観」と言ってもよいのである。(Opus medium Vol.8 プログラムに掲載)

 

 

 

*Chaosmosとは何か?

 

私は作品やパフォーマンスでChaosmosと言う概念をよく使っている。それはchaosとcosmosとの合成語である。ただしchaosmosとは、chaos(カオス)とcosmos(コスモス)が止揚してあらたなchaosmosという概念が構築されるわけではない。

両者は互いに必要でありながら、両立不可能でどちらにも還元されず、固定した実体をともなわないもの、つまり仏教の空、あるいは量子力学のWeavecle(波動と粒子の関係)と似た性質をもっています。

 

*ポスト構造主義と仏教

 

ショッペンハウワー、ニーチェからフッサール、ハイデッガー、そして構造主義・ポスト構造主義に至るまでの西洋哲学史を垣間みると仏教思想の影響が顕著に見られます。 
 また、今日西洋で最も先端的と言われる思想や科学の中にも仏教思想と驚くほど似ているものが少なくありません。 
量子力学、オートポイエーシス、アフォーダンス、ネットワーク論etc。

それらの特色として以下の3つが導きだされるのです。

 

(1) すべては、生成変化している・・・・無常

(2) 固定した実体より、関係性・・・・・・縁起

(3) 表層の意識から深層の無意識へ ・・・・唯識(阿頼耶識、マナ識」) 

 

   実はこれらの概念は元来、仏教思想によるものなのです。

(1)は仏教では無常、(2)は同じく縁起、(3)は同じく唯識思想

 

   その中で構造主義・ポスト構造主義と仏教思想はとても似ているのです。

(ポスト)構造主義で良く言われる、「脱主体」「脱構築」「間ーテキスト性」は、仏教で言えば、「無我」、「空の実践プロセス」「縁起』を置き換えてもそれほど違いはないでしょう。

 そもそも構造主義の基本となった言語学者ソシュールは、当初サンスクリット語の研究家であったことからサンスクリット語を通じて様々な仏教経典にふれ(仏教の経典は当初バーリー語やサンスクリット語で書かれていた)そこから構造主義に導くヒントを得たのではないかと推測できるのです。 従って、ロラン・バルトやジャック・デリダの思想で、様々な現代アートや映像表現の解釈として良く知られているものに、テクスト論ー「作者の死」という概念がありますが、バルトの「作者の死」(テクストを作者の意図から解放し読者への多様な解釈を施す)は仏教の華厳経の相即相入(自用ー(作者)ー他用(読者))の関係と唯識思想の一水四見で解釈が可能ではないかと思われます。 また、デリダの「作者の死」は大乗仏教の空の実践プロセス(俗ー聖ー聖なる俗)と刹那(せつな)の非連続的運動とも言えます。 

 そう考えてみると20世紀後半の四半世紀のわずか数十年に集合的沸騰のごとく流行したポストモダンの状況はポスト構造主義を思想的な裏付けとしていましたが、長い歴史のスパーンをもった仏教思想と比較してみると単に差異や多様性を指摘しただけのようにも思えるのです。 
 問題は日本において未だ西洋思想・科学=先端的でトレンドという固定観念、先入観が支配している点かもしれません。 


*リトルネロ~生成する身体知のクオリア~


「リトルネロウ」は元来、反復を意味する音楽用語である。
 現代の哲学者ドゥルーズ=ガタリは彼らの著『千のプラトーで「リトル
ネロウ」という意味の音楽論を展開しているが、それはいったい何を目指すものなのだろうか。 「リトルネロウ=反復」はドゥルーズの著書「差異と反復」のことである。「差異と反復」とは端的に言えばニーチェの「永劫回帰」の思想についての解釈のことである。ドゥルーズは「差異と反復」を常に異なった一回限りの出来事が瞬間、瞬間、繰り返されるものとして、非連続の連続であると解釈した。言わば仏教の刹那滅の連続のようなものであろうか。自己Aは他者との関係で自己Bに変化し、自己Bはまた他者と関係で自己Cへと変化する。それが永々と続くのである。  

 ごく単純に言えば私たちを取り巻く世界は本来、複雑で動的なメカニズムで成り立っている。しかし、人間は言葉によって世界を分節化し、複雑なものを複雑なまま受け入れるのではなく、世界を静的、固定化、単純化しようと考えたのである。(その意味では音楽も音楽言語によって作られているのである。)
 それによって人間はいちいち身体のエネルギーを使って判断や決断するという負担から逃れることができるようになった。しかし、同時に言語による苦悩(言語が持つ現実との差異、ズレ)も生む結果ともなった。
 たとえば、人が「思い悩む」大きな理由の一つに物事が「自分の思い通りにならない」(仏教では「求不得苦」と言うが)ということがある。それには次の2つの大きな要因が存在する。

(1)すべてのものは生成変化する(無常)
(2)すべてのものは相互に依存している(縁起)

(1)を仏教では無常、(2)は同じく縁起と言うが生成変化するから、今日の自分は明日の自分ではない。あんなに好きだった人のことも、些細なことで一瞬のうちにきらいなることがある。またせっかく身に付けた知識や技術が明日にはもう役に立たなくなるかもしれない。社会は自分のおもいどおりには変化しないのである。
 また、人間は一人では生きることはできない。あらゆるものと相互に依存している。従って常識だと思っている自分の考えも他者にとっては非常識ともなりうる。その結果、綿密な計画を立てれば立てるほどその通りにはいかないのである。
つまり、自分の思い通りにいかないのは「思い通りに言語で固定・執着する」からではないだろうか。
 従って、わたしたちにとって今必要なのは生成変化(無常)と相互依存(縁起)の概念を自覚し、謙虚に受け入れ、「固定した言語」からの束縛を放れ本能に目覚めることではないだろうか。
その意味において「リトルネロウ」とは音楽言語と言う固定したエクリチュールで音楽と非音楽に区別した言わば「(選択されない)音を聴かせないためのシステム」であった音楽を「差異と反復(非連続の連続)という広大な「音の世界」へと戻してあげると言う意味も込められているのである。しかしながら、私たち人間は今更、自然に帰れ、本能だけで生きるわけにもいかない。
 従って可能なら言語と言う執着や煩悩を持ちつつ、自然との一体化つまり複雑なものを複雑なまま受け入れというやり方が理想なのである。 それは何も特別難しいことではない。
 たとえば、ジョン・ケージの4分33秒は「ただ音を聞く」、ことを通じて音を分節、分別しない。つまり音をもとに、自由に創造(想像)を行わないことを聴衆に求める。(よく「4分33秒」を「音楽的創造は演奏家ではなく、聴衆が自由に音楽を創造し、思いを巡らせるすること」という間違った解釈がされるが。)

つまり音楽は無分別にすぐ目の前にあるという、「発見」や「気づき」なのである。

 もっともケージの試みは作曲家や演奏家の創造を無力にすることで聴衆に音を開放するというこころみを通じて、逆説的に作曲家と演奏家の役割の大切さを再認識する言わば方便とも言える方法を用いたとも言えるが。
 一方、私たちは精神が身体を支配する西洋的世界観とは異なる立場から「身体の復権」という生の哲学の立場に立ち、身体が様々な音、映像を含む諸感覚と相互依存しながら非同一的な連続のままに受容することをまず考えたい。
 そして、「仏陀」と「ニーチェ」が変化しない自己を徹底的に否定したように固定した認識や行為の主体を否定し、生成変化の象徴を音楽に求め、生成する「力の意志」として喚起することである。
 本来、私たちの身体、生命自体は複雑で動的なものである。従って、複雑で動的なメカニズムを複雑なままに受け入れることは、生の根源に立ち返ればいささかの矛盾もないはずである。
 つまり私たちは「身体知」と「言語の知」を相即しながら「境界知」そのものになるのである。(opus-medium project vol.4プログラムに掲載)


*湯浅譲二の音楽思想

 湯浅譲二は「音楽とは音響エネルギーの推移であり、コスモロジーの反映である」と言う言葉で音楽の世界観を表現する。
「推移」は「無常」、「コスモロジー」は「縁起」と置き換えてもいいであろう。
音楽は音響的に言えば波動である。ニーチェの「力の意志」のように常に上下する。
あらゆる事物は上下(事物は極限まで到達すると反作用を起こし、また事物は徹底すると逆方向へ到達する。西へ行けば東へ出る。)しながら生成変化という無常を繰り返す。時間は過去・現在・未来へとは流れない。常に現在「今・ここ」があるのみ。同じことが二度起こることはない。常に異なったことが連続する。つまり非連続の連続が上下しながら繰り返されるのが永劫回帰、輪廻転生である。
「音響エネルギーの推移」とは音楽を通じて事物のメカニズムを象徴的に示した言葉ではないか。
また、「コスモロジー」とは、一般的には宇宙観を意味するが彼の言うコスモロジーとは決して人間の力の及ばない超越的で、神秘的なものを示すのではない。それは、これも湯浅が好み、彼の作品でしばしば用いられる、投企(プロジェクション)と、「内触覚的宇宙」と関係がありそうだ。  投企(プロジェクション)はハイデッガーやサルトルが示した本質的な人間の在り方としての実存。
それは、自らが決意し、世界へ投げかけることによって到達する「永遠の時間」、しかし、「永遠の時間」は長さではない。深く浸透する質としての時間、つまり時熟である。
 『プロジェクション・トポロジック(1959)』や『相即相入 ( 1969), 相即相入2番 (1983)』では宇宙、自然、そしてあらゆる生命は無常であり、固定的でなく、常に生成変化し、やがて消滅する、あらゆるものがネットワークで結ばれると同時に非連続の連続という刹那滅時間へと帰依する時熟。つまり華厳思想的宇宙観を喚起するのである。
 さらに時熟の質的時間は深層心理の世界、ハーバード・リードの「イコンとイディア」から触発された「内触覚的宇宙(1957)」や、すべての周波数を含むホワイトノイズを使用した『プロジェクション・エセンプラスティク(1964)『ホワイトノイズによるイコン(1967)』へと志向する。 その原初的な世界観はメルロ・ポンティーの「認識以前の世界へ立ち帰り」やバタイユの「内的体験-非・知」をも想起するが、湯浅譲二は特にユングの世界観にも共感を覚える。
ユングは「広大な外的世界と閉ざされた内的な無意識の世界との間に人間は立つ」と考える。それは西洋と東洋との刺激的な接触。外の世界を観察しながら閉ざされた内なる世界が喚起し、自他が一体される世界。時熟と言う刹那滅による細胞レベルのフラクタル構造に個人的無意識と集合的無意識がともなうことで、個に民族性、時代性が重なり合う。そして意識と無意識、コスモスとカオス、そしてミクロコスモスとマクロコスモスの交代というカオスモス。「内触覚的宇宙4(1994)」~チェロとピアノのための〜について湯浅は『チェロとピアノがそれぞれの特性を主張し、時にはアンサンブルともなる。形態的には構造的部分と不定形なアモルファスな動きが交代する形をもつと述べている(「人生の半ば」湯浅譲二著)』。
 また『ヴォイセス・カミング(1969)』や『擬声語によるプロジェクション (1979)』は、構造主義言語学に注目し、意味(シニフィエ)が確定しない音声(シニフィアン)、つまり言語の文節を超えた音響や音態それ自体を表わすオノマトペによって非言語的同一性を表現する。
つまり湯浅譲二のコスモロジーとはこれらの作品を通じて「非同一性の同一」「非連続の連続」という固定されることのない生なる根源へと向かうのである。

 

 

*湯浅譲二からサウンドソーセスへ (クロストーク1号:現代音楽のクオリアに掲載) 

 

  音楽思想の立場に立てば、湯浅譲二を継ぐ作曲家はサウンドソーセスのメンバー(近藤譲、佐野清彦、石田秀実、坪能克裕、谷弘)であろう。 

彼らの行動からはポスト構造主義とも仏教思想とも思える作曲法や言説が感じられる。 

近藤譲はレヴィ=ストロースの著書を読んでいたと述べているが (『作曲家が行く─西村朗対話集』春秋社)、作曲法について「最初の音を決め、聴いているうちに二つ目の音を決め、三つ目を思いついたら初めから聴いて順番に一つの音を足していく、そうしてできあがった音の列の関係は聴きだすことで成立する。そして、「AとBによってできる関係がBとCによってできる関係によってできる関係によって裏切られるように音を繋いでいくわけです。そして更に四つ目の音Dを書く際には、A、B、Cによってできている関係が、Dによって裏切られるように音を置いていく…※3と言う。つまり常に何らかの関係性が成立し、それらは組織的であっても同時に曖昧であることを設定するという、同一性と同時に非同一性を志向する。 

佐野清彦はサウンドソーセスの活動の後に、WET(近藤譲、佐野清彦、石田秀実)、GAP(佐野清彦、曽我傑、多田正美)を通じて、主として即興音楽を探究していくが、彼にとって即興とは単に演奏法や型ではなく思想であり概念である。自由即興を通じて言語へのこだわり(言霊性、感性は別として)を捨て、聴覚のこだわり(電磁波のひとつである光は別としてとして)を捨て、素の状態で直接感覚の世界へ自らを解き放ち五感をのびやかに自由遊戯させると述べ、無量の人々の叫び、思いこそが真の普遍であると言う思いから、彼は地球音楽を展開する。 

 

また、石田秀実は「存在論的に表象するわけでも、特定の事象を志向するわけでもないのに、身体を含む自然世界をその変転極まりない非同一の相の連続のままに受容し、その受容と相即し身体が行為する知」とのべ「変わり続ける非同一性の知」を主張する。

 

 

 

* 四無量心 ~ Nothing is the past, Nothing is the future ~ jon cage beyond

 

 現代の思想や科学において、たとえばニーチェの生の哲学からデリタ、ドゥルーズなどポスト構造主義までの哲学、フロイトやユング以後の心理学、量子力学や相対性理論の現代物理学、複雑系、自己組織化、オーポイエーシス、アフォーダンスなどの社会システム、さらにインターネットの概念にいたるまで、これらに共通する特徴として、おそらく以下のような概念が導きだされるのではないでしょうか。

 

(1) すべては、生成変化している

(2) すべては、相互に関連している

(3) 表層の意識から深層の無意識へ

 

実はこれらの概念は元来、仏教思想によるものなのです。

(1)を仏教では無常、(2)は同じく縁起、(3)については、西洋において無意識の世界はフロイトやユングよって発見されたと言う説が一般的ですが、仏教では彼らに先んじること千数百年前、唯識思想の阿頼耶識の概念によって無意識の構造が詳しく述べられているのです。

 これらの概念を端的に言えば事物に固定した実体はなく、無常であり縁起だからこそ相互に関連しながら変化すると言えます。仏教と言えば、ジョン・ケージが鈴木大拙を通じて仏教から多くを学んだことは良く知られています。

 一般的に言って作曲は音を分別、選択、することによって成り立っていると言えます。それは他方で分別されない音は音楽ではない。音楽とは音を聴かせないためのシステムでもあるのです。ではケージの考えはどうでしょうか。

 有名な「4分33秒」は「沈黙の音楽」と言われています。仏教にも維摩経(ゆいまぎょう)という「沈黙の経典」が存在します。維摩経では、事物を言葉にした瞬間、そこに区別(分別)と執着心が生まれて迷いが生じることから沈黙をもって答えます。ケージの場合も同様に沈黙を通じて無分別、未分化、そしてありのままの世界を通じてすべての音に耳を傾けるのです。

 ありのままの世界では、音という独立した存在があるのではなく、あらゆるものが相互に関連しあっていることが喚起されるのです。ケージの「トイピアノ」「カリヨン」による音楽もまたありのままの世界、無垢な世界を通じて音楽の固定観念や先入観からの開放を意味しているのです。

 次に音楽家でもあった哲学者ニーチェは永劫回帰(永遠回帰)の概念を示すと共「力の意志は上下する」と述べています。永劫回帰とは「事物は常に異なったことが瞬時に起こり、同じことは、二度と起こりえない状態が連続する」と言うことです。これは仏教の刹那滅の連続、つまり非連続の連続の概念に似ています。

 実際ニーチェは「仏教はリスト教より100倍実践的である」と述べていますが、彼は仏典に接し、そこから自身の哲学へのヒントを得たのではないかと思われます。

 また「力の意志は上下する」とは、人生はそして社会は「上下」、つまりよかったり悪かったり、上昇機運に乗ることもあれば、下降することもあると言うことです。(ちなみにニーチェは作曲家でもあったことから音楽からこの概念を導いたのではないかと思われます。 

 湯浅譲二は「音楽とは音響エネルギーの推移である」と述べていますが音楽とは音響的には上下する波動なのです)それなのに私たちは、ついつい過去のことにこだわり、物事を固定的に考え、今の状態がずっと続くのではないかと錯覚します。

 たとえば「リーマンショック以後社会は不安定になった」と言われています。しかし、社会が安定したことなどあったのでしょうか。また現在は「異常気象」の時代であると言われています。では逆に「安定気象」とはどんな気象でしょうか。自然は生き物です。気象とは常に変化し、時には猛威をふるうものなのです。つまり気象は常に異常なのです。

 今、私たちに必要なことはそうしたマスコミの短路的な情報に一喜一憂し、振り回されるのではなく、事物に固定的、普遍的なものはなく、一切は変化する。生あるもの、形のあるものは必ず消滅する(ピラミッドや法隆寺は現存しますが、当時の形とはまったく異なったものです。)と言う事実を受けとめるとともに、無常(生成変化する)と縁起(すべては相互に関係している)を基本にした上下する循環という原則を受け入れ慌てず、長期的な展望を持って冷静に好機を待つことです。 

そのために私たちには「我」と「常」ではなく「無常」と「縁起」による実践としての智慧が必要なのです。四無量心(しむりょうしん):慈・悲・喜・捨とは、原始仏教から大乗仏教に至まで仏教に共通する智慧です。

         

     慈無量心・・・ 限りない慈しみの心 

           悲無量心・・・ 他者の痛みを共有にする心    

           喜無量心・・・ 他者の喜びを共有する心      

           捨無量心・・・ 自らのエゴを捨て好き嫌いによって差別しない心                     

四無量心とは自分さえ悟ればよいと言うのではない自利から利他へと向かう共生の概念とも言えます。僭越ですが、私たちは音楽や芸術を通じてそのようなことを目指せればと思うのです。

 仏教は超越的存在や絶対者を否定し、神にもたよらない(無神論という解釈さえされる)と言う特徴のため、宗教と言うより哲学や心理学に近いと言えます。ニーチェと同じように私たちが仏教を高く評価し、テーマとしたのはそうした仏教のもつ科学的な側面です。宗教や仏教なんか大嫌いと言う人も多いことでしょう。とりわけ仏教はそういう人達におすすめの「心の科学」なのです。

 仏教は何しろ仏教自体にも執着してはいけないのです。禅の臨済宗の教えに「仏に出会ったら仏を殺せ」とまで言っているのです。では最後に仏教は、ニーチェは、ケージは、四無量心は、いずれも難しい、わからないと言う方に2つのことを紹介しましょう。

 一つはジョン・レノン作曲の「イマジン」です。こう言ってます「天国はない。地獄もない。宗教もない。国境もない。みんないまこの時を生きている。みんな世界を共有している」、もう一つは赤塚不二夫のマンガに登場する「天才バカボン」のパパです。その無垢な性格は、ニーチェ的とさえ言えますが、仏教の空の概念も連想されます、「反対の賛成」「賛成の反対」、、、、これでいいのだ。